このコーナーは県聴覚障害者情報センターの奈須事務長が通訳活動を通じて感じた諸々の想いをエッセー風に綴ったコーナーです。 手話通訳場面で留意しなければならない事や側面的に支援する手話通訳活動のあり方とは?等について考えていただければいいと思います。 このコーナーは県聴覚障害者協会が発行している「豊の国聴障ニュース」に連載してきたもので、協会からも「行こう とにかく行こう」の冊子として発行しています。
音なしテレビ、なぜ面白い ○ ○の娘です
ラーメン定食二つ ろう者より先に怒るな、泣くな、笑うな
ケンカ通訳 「伊東雋祐は神であった!」
謙虚 「依頼」と「信頼」
ヘボ将棋 過剰サービスは負担
恩返し 通訳対象はろう者だけではない
ろう者の権利回復としての日本手話 一行の思いやり
覚えるために教わる手話 何かが違う、どこかが違う
手話ホームスティ それぞれの立場
最近の手話講習生事情 あなたの手話は難しい
先ず人間が覚えたら? チャペルの鐘
朝顔観察日記 「養成」事業で人は育つの?
赤ん坊の手 どっちを信じるの?
忘れてほしいの! 育てなおし
手話通訳は誰のため キャベツはもらっていいの
たどたどしい手話に思う 私は練習台?
オーダーメイド通訳者 手話上達の秘訣は酒?
育てる喜び 何故
お母さんは耳が聞こえません 聞こえない
通訳者の親はろう者? 通訳を見ない権利
かき氷ひとつください 酒場通訳
手話は覚えてもらうもの? 同じ時代を生きる
病気に感謝 誰のための正義感
癒しとしての手話 教わる
この声の所有者は 身体障害者手帳は石のように重かった
あなたが一番! カタギになって!
「上手」と「分かる」の違い 校庭からの卒業式
自己評価、他者の評価 いとおしい
やっちみちから言え!
事前準備し過ぎ?

 
音なしテレビ、なぜ面白い

 聞こえない人と一緒にテレビを見ていて、「話の内容が分からないから面白くないやろ?」と尋ねると「生まれたときから、テレビは音のない状態で見ているので何とも思わない」という答えがかえってきた。
 私は、なぜか分からないがくやしくて、テレビの横で通訳した。ドラマが終わった後に「面白かった」との感想がかえってきた。
 生まれたときから聞こえない生活をしており、そのことを不便だと感じていないろう者もいる。しかし、通訳者を活用することにより、不便さを自覚してくる場合もある。
 聞こえないことの不便さを自覚させることのできる通訳活動をしたいものだ。
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「ラーメン定食二つ」

  「ラーメン定食二つ注文して下さい」通訳を終えて、県庁に帰ってくると、ろうあ者からのファックス用紙が私の机の上に置かれていた。ファックス設置については、県の助成制度が全国に先駆け行われていたので、ミニファックスを設置しているろうあ者が多かったため、それまで電話の中継的な役割もしていた。
しかし、ラーメンの注文を受けたのは初めてで、職場の電話は使わずに外の公衆電話からお店に注文し、注文を済ませたことをろうあ者にファックス送信した。「仕事を休ませて下さい」という内容なら、平気で会社に電話するのにラーメンの出前は、何故職場から電話できなかったのだろうか?
聞こえないということから生じる不便な問題解決の援助をしていく役割を担う通訳者として、大きな声で堂々とラーメンを注文できなかった自分を恥ずかしく思う。プライベート過ぎるという事が頭の隅にあったためであろう。しかし、現実の生活場面では、そんなささいな事の不便が山積みされ、生活全体を不便なものにしているのである。
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「ケンカ通訳」
 今回は、「社長とけんかしてほしい」とろう者から通訳依頼があった。会社を辞める前に今までの不満を社長にぶつけたいうことが依頼の趣旨であった。
人間が「怒り」を相手にぶつけられない事ほどくやしい事はないであろう。
職場での通訳は、いつも頭を下げてばかりの低姿勢の通訳が多いが、言いたいことを思いっきり、言えばよく、今までのうっぷんをはらすため?張り切って会社に出掛けた。
 いざ社長と対面すると、ろう者は「さっき話したことを言ってくれ」と言い、手を動かそうとしない。ろう者本人が手話をしないかぎり、通訳者が代理人的に話すことはないが、当時は若く、経験も浅かったので、言われるままにさっき聞いた不満を社長に言っていると、ろう者から注文がきた。
 「笑顔を見せないで、怒って言え!」と言われても、ろうあ者が手を動かしていないのに、通訳者が怒っても迫力に欠ける。
 しばらくすると、ろう者の手が語り始め、私は「通訳マシン」となり、怒りに合った言葉を選択して社長に伝えた。
 しかし、怒りを伝える通訳とは難しいものであり、言い方によっては通訳者と社長のけんかになってしまう。
 ともすれば、ろう者が怒っているのに通訳者は穏便に済まそうと当たり障りのない通訳をしてしまいがちになることがある。
 通訳者の声が聞けないろう者にとっては、通訳者を信じるしかない。
 信用された通訳者は信用にこたえるために、時には通訳マシンになることも必要ではなかろうか。
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「謙     虚」
通訳経験が長くなると、知らず知らずのうちに「謙虚さ」を失ってしまいそうになる。私などは、常に自分自身を戒めておかないと、傲慢不遜な性格が丸出しになってしまう。
手話が「わかる」という意識から、「できる」という意識に変わっていくことのないようにしなければならない。あくまでも、ろうの人たちと会話するための手段としての手話が「わかる」のであって、手話が「できる」という意識を持ち始めたときは、謙虚さがなくなり、傲慢さが芽生えてきたということだと思う。
「謙虚さ」を持っている通訳者に出会うと、本当にうらやましい。心からうらやましいと思う。
「謙虚さ」を持つということは、他人を尊重し、思いやる心を持っているということにつながる。これは通訳活動をしていく上で重要なことである。
手話サークルを見ていると、手話学習歴や手話技術を重んじ過ぎているように思うことがある。
このような環境が「謙虚さ」を失わせていく一要因ではないかとも思う。会員それぞれが持っている能力や個性は、手話技術偏重の中では十分に発揮されにくいのではなかろうか?
人を思いやる心を持ち続け、「謙虚さ」を絵に描いたような人だと言われてみたいものである。
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「ヘボ将棋」

 NHK「ふたりっ子」の影響を受け、小三の娘に将棋を教え、飲みながら将棋の相手をさせて、暇をつぶしている。将棋の一番面白いのは「ヘボ将棋」といわれる時期であろう。金や銀が行ける場所さえあやふやで、「王より飛車を大切」に考えている時期である。
 手話と関わって二十数年になるが、一番面白かったのはいつかと聞かれれば、ヘボ将棋と同じように、緊張しながら手話を表現し、また相手の手話が読み取れずに何度も聞き返していた時期のように思う。
手話の勉強を始めたばかりの初々しい(年令に関係なく)人たちを見ると、何となくうらやましい気がしてくる。
たどたどしい手話で、不安そうにろうの人たちに話し掛け、通じた時の喜びの表情が何とも言われぬぐらい美しい。               
手話が早く上手になりたいという気持ちは、手話学習者なら誰でも思うことであり、王より飛車を大切にするのも手話学習者の通る道であろう。
ただ、聴覚障害者が望む通訳者像は、飛車(手話技術)のみを求めていないということに気付いてほしいと思う。
春を迎え、初々しい手話受講生千人以上が県下各地で手話学習を開始する季節となりました。
手話との関わりが少しでも長い皆さんの適切なる指導に期待します。
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「恩  返  し」

 赤信号で停車していると、歩道橋の下で五〜六人のお母さんが木影に隠れて上の歩道橋を注視している。
何事かと思って見ていると、可愛い幼稚園児が先生に連れられて堂々と歩道橋を渡ってきた。初めての幼稚園通園で、途中まで母親が迎えにきていたのだ。涙を拭いていたお母さんもいた。それを見ていた私も我が子の初めての通園場面を思い出し、涙ぐんでしまった。
しかし、そのうち子供は成長し、親の言うことを聞かなくなり、親も悩みを抱えて大変になるだろうと思いながら、劇的な親子対面場面を見ることなく、青信号を通り過ぎていった。
手話を勉強している健聴者に対して、ろうの人たちも、この母親のような立場で見ているのかなあと思う。
カタコトの手話しか知らない健聴者に手とり、足とりして手話を教え、何でも素直に言うことを聞いていた年令から少し手話ができるようになって、反抗するようになり、注意しても言うことを聞かない年令へと進んでいくのであろうか。子供はその無限の可愛さにより「三歳までに親に恩返しをする」と言われるが、手話学習者は、聴覚障害者にいつ恩返しをするのであろうか?また、どんな恩返しの仕方があるのであろうか。
私たちが常に考えていなければならないことだと思う。
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「ろう者の権利回復としての日本手話」

手話について、「健聴者的手話」、「ろう者的手話」、「伝統的手話」、「中間型手話」など、様々な表現が言われ続けてきたが、ようやく整理されてきた。
つまり、健聴者が覚える手話と実際にろう者が使っている手話が異なり、いわゆる健聴者的な手話通訳をされた場合に、ろう者は分かりにくい場合があるということである。
一方、ろう者的手話を表現された場合に手話通訳者がスムーズに理解できないということである。
これは、手話通訳が「ボランティア的行為」と考えられていた時には、あまり表面に出てこなかったが、手話通訳が一つの「言語通訳」と考えられはじめた頃から、徐々にろう者からも手話学習者からも出されてきた。
では、手話講習会の中で、実際にろう者に通じるような手話技術を指導すれば良いでないかと誰しも思うことであるが、下記のようなことから指導されてこなかったと考えられる。                         
〇1手話に対しての社会的評価が低く、指導するろう集団としても、自信をもって自分たちが日常使っている手話を指導できなかった。(手話よりも日本語が上の言語という意識を、教育の中で植え付けられてきたのが原因と考えられる)
〇2言語としての手話の研究が進んでおらず、体系的に日本手話を指導できる条件が整っていなかった。
〇3第二言語としての手話を覚える健聴者にとって、日本語の文法に合わせて手話を覚える方が覚えやすかった。
右記の他にも様々な要因が考えられるが、最近はこのような手話講習会の指導について見直しをしようとする動きが出てきており、厚生省や全日本ろうあ連盟等を含めた検討委員会が発足予定である。
手話奉仕員養成事業が昭和四十五年に開始されて、二十七年になる今日、多くの人たちの労苦が実り、「日本手話」と「日本語対応手話」とに整理されてきた。
そのことにより、日本手話の学習カリキュラムも少しずつ整えられつつあり、身に付けることが難しかった日本手話も、手話講習会の中で身に付けていく条件が整ってきた。
しかし、聞こえない人たちが抱える問題に対して、共感できる通訳活動者になるためには、多くのろう者との交流活動は、絶対に欠かせないものである。
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「覚えるために教わる手話」

最近の手話講習生は、テレビや書籍で手話を学んだりしており、講師に対する質問も増え、指導する講師がしっかりと事前準備をしていないと、返答に窮する場合もある。これは、講師としての自覚を促すためにも大いに歓迎するところであるが、◯◯先生は分かりやすくて良いが、××先生の指導は分からないという批判の声を聞くことが増えてきた。確かに手話講習会の会場が、以前と比べようもないほど増えており、講習会の指導講師も増えて、技術や理論指導等で十分でない点があるのは事実である。
しかし、それぞれの講師には得意な分野や苦手な分野があり、受講する者はそれぞれの講師の良い面を吸収していこうとする姿勢が必要なのではなかろうか。今後も質問や疑問を講習会の中で積極的に出してほしいし、それらに講師が答えられるように、今後も講師研修会を充実させていかねばならないと思う。
人が何かを学ぼうとする時には、学ぼうとする全体像の概略が見えてきてから、自分の意見を口にのせる方が筋道としてふさわしいのではなかろうか。講習会で講師に遠慮することは何もない。ただ、「学ぶ姿勢」を忘れずにいてほしいと願うだけである。
また、講師は、講師としての自覚を持ち、××先生にならぬように更に努力せねばならないことは言うまでもない。
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「手話ホームステイ」

視覚言語としての手話を聴覚から覚えてきた健聴者にとって、日本手話を十分に読み取っていくことは困難を極める。
第二言語習得のためには、その習得しようとする言語を使っている人たちと共に生活し、その中から身に付けていくことが一番の近道であることは言うまでもない。
手話言語習得の場合には、ろう者との交流の中で習得することがどうしても必要になってくる。
そして、その交流が一週間に一回程度ではなかなか身に付くものではない。
そういうことを考えていくと「ホームステイ」という方法が思い浮かんでくる。高校生や大学生が外国に行き、一緒に生活する中で言語や文化を身に付けていくという方法である。
手話習得のためにろう者の家庭に「ホームステイ」して手話を学んでいくという方法はどうであろうか?
果たして、受け入れてくれる家庭があるかどうか。起こりうる問題点は何か、等今後十分に検討していかねばならないが、金曜日、土曜日のみの「週末ホームステイ」というような方法であれば実現可能ではないか、と真剣に考えているこの頃である。
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「最近の手話講習生事情」

四月の手話サークルリーダー研修会の際に驚いたことがありました。
ある地域の手話講習会中級修了者五十人の中で、手話サークルに加入したのはたったの三人だというのです。
同じような傾向にあるサークルが多く、従来のように「手話講習会修了者は、サークルに加入する」というルートは、壊れてしまったようです。
このような状況が続くと、各サークルの新入会員が増えず、活動が停滞してしまうことになります。
サークル加入者が少ないと聞いた時に、手話サークルの講習生に対する勧誘活動が不足しているのではないかと感じましたが、それぞれのサークルなりに取り組んでいるというのです。
確かに、大分市に於いても、手話講習会を修了してもサークルに加入しない人が最近増えているのは事実です。
サークル加入を勧めると「私は、まだまだサークルに入る力がないので・・・・」という返事が多く、結局中級修了後に通う講習会もなく、手話学習活動から離れてしまう人が多くなっています。
これは、最近の手話学習者の意識が大きく変化してきており、手話そのものの学習が目的であり、聴覚障害者との交流やボランティア活動等は考えていないという人たちが増えてきていることにもよると思います。
しかし、この現象を否定的に受け止めるのでなく、手話に対する社会的関心が高まっているからであり、手話講習会を修了してサークルに加入しないという人もいることが自然なくらいに手話が広まってきたという受け止め方をしても構わないのかもしれません。
ただし、右記のような一般市民啓発の手話講習会と手話通訳活動を目指す手話講習会を分けて開講する時期にきているのかもしれません。
そして、協会や手話サークルは手話講習生との関わりを深めていき、「手話学習のための手話学習者」に終わらせず、修了生とろう者との関わりを持たせるような取り組みが必要です。
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「先ず人間が覚えたら?」

先日テレビで、郵便局の窓口に訪れるろう者のために、パソコン画面を使って、手話での会話が可能となるようなシステムが研究されている状況が放映されていた。
郵便局の窓口業務では、現時点で四十単語ぐらいの識別が可能であり、必要単語は二百単語ぐらいということであった。
パソコンを使っての手話での会話が可能になることは、プライバシー保護等の面で望ましい一面もあるが、手話の表現パターンを読み取っていくためには、まだまだ時間がかかりそうである。
ただ、現在の日本のハイテク技術をもってすれば、遅すぎたという感じがするが、このように、福祉面で手話の研究開発が行なわれる時代になったことは、歓迎すべき事だと思う。
しかし、このパソコンが実用化されるまで、職員が手話を覚えようとはしないのであろうか?
窓口業務で必要と言われる二百単語を覚えたとしても、ろう者が用件を十分に満たすことができるかどうかは、疑問であるが、職員が先ず覚えていくという姿勢を持つことが前提ではなかろうか 
このニュースを見ていて、先ず、「人間が覚えろ!」と言いたくなった。
もし、あなたも見ていたら、腹立たしかったと思いますよ。
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「朝顔観察日記」

五月中旬頃に植えた朝顔がやっと花を咲かせてくれた。なにせ、十数種類の種を百以上植えたために鉢や土の準備で大変だった。それからは、毎朝、朝顔の成長を楽しみに水やり等の世話を続けてきた。夜飲んで遅くなっても必ず、懐中電灯を照らして夜の見回りを欠かさず、虫を駆除して、大切に育ててきた。そのかいあってか、つるが伸び棚に絡みはじめた。朝顔のつるは、恐ろしい勢いで伸び驚かされた。
観察してみると、上段の棚につるを巻けなくて、ふらふらしているものや、上の棚にしっかりと伸びているものもある。同じ日に植えても種類等により差があり、上段のハードルにたどりつかず、人間の手で巻き付かせてあげなければならないものもあった。この朝顔の観察により、手話学習者に対しても同じことが言えそうな気がした。
同じ時期に手話を学び始めたとしても、誰でもが同じ高さのハードルを越えられるわけではないし、越えられない者にはハードルの高さを低くしてやれば、順調に成長してくれる。そして、花の色や形が違うように、それぞれ個性を持った手話学習者が誕生してくる方がいい。
やがて、花は終わるが来年のために朝顔は種を残す。
私たちも朝顔を見習って、自分自身が身に付けた手話を多くの人たちに広げてほしい。ただ、朝顔のつるの左巻きだけはまねしないで。
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 「赤ん坊の手」

子供が小学校高学年にもなると親父の膝に乗る回数も少なくなり、知人の子供を見ると抱っこしたくなる。
特に赤ん坊を抱っこする時に赤ん坊の手に自分の指を握らせる。
その力強さに驚くと同時に感動を覚える、それは赤ん坊の絶対的な信頼を指先に感じるからであろう。
様々なボランティア活動があるが手話ボランティア活動ほど対象者との信頼関係が求められる活動も少ない。
そして、その信頼関係は十人も二十人も必要ない。また作ろうとしても無理であろう。たった一人のろう者との信頼関係で十分である。
この信頼関係が作られると手話の世界から抜け出せなくなるし、活動の喜びが広がってくる。
ただ信頼関係と口では簡単に言えるが、かなりの時間を要するし、人間関係で悩まなければならないであろう。
手話ボランティアの場合は、この人間関係に嫌気がさして活動をやめてしまう場合と、活動の喜びを感じ継続する場合とに分かれる。
最近の手話学習者を見ているとサークル会員同士の親睦に中心が置かれ、ろう者との人間関係を深めていく人たちが減少しているような気がしてならない。
もっと、ろう者との人間関係を深める活動に重点を置いたらどうだろう。
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「忘れてほしいの!」

あるろう者に「手話通訳者に望むことは何?」と聞いたら、「通訳した内容を忘れてほしい」ということであった。
今まで通訳した細かな内容に触れなくても通訳後にろう者に会ったら、「この前の件、大丈夫?」等と声をかけることが多かったし、それが必要と感じていた。
しかし、通訳内容によっては、その話題に触れたくない場合の方が多いであろう。
手話通訳を依頼するろう者の立場に立てば、自分のプライバシーに関わることに通訳者という他人を交えることに抵抗を感じるであろう。
そういうろう者の気持ちを理解していれば、通訳内容を他人に漏らす等はありえないであろう。
そして、通訳後に、通訳内容によっては、ろう者から話しかけられるまで、全く忘れてしまった、という雰囲気を出していくことも必要であると教えられた。
実際の通訳場面では、個人の重大な秘密までも知ってしまう場面があり、ろう者にしたら、通訳者の私に二度と会いたくないだろうと思うことがある。
聞こえないがゆえに、手話通訳を介さなれければならないろう者の気
持ちを、もっともっと考えていかなければならないと思う。
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「手話通訳は誰のため」

「○○大会の手話通訳をお願いします」と主催者から協会に電話で依頼があった。 その会話を再現してみます。
「主催者:式典部分のみの通訳で講演の通訳は必要ないです。
協 会:この大会は身体障害者関係の大会であり、従来から聴覚障害者の参加もありますけど・・・
主催者:今日の会議で式典部分のみと決まりましたので・・・・。
協 会:講演の時に聴覚障害者は何も分からない状態に置かれますよね。
主催者:でも講師の原稿もないし、通訳者の方が大変だろうという事で式典のみの通訳に決まったんですよ
協 会:・・・・・」
最終的には当然講演会の通訳も行なうようになったが、手話通訳に対する認識というよりも、聴覚障害者の情報保障に対する認識の不十分さに驚くばかりであった。
これが実状なのかも知れないが、手話通訳や聴覚障害者に対する情報保障について二十年前ならともかく、現在において「知らなかった」では済まされないのではないか。特に今回の主催者は行政であり、尚更である。
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「たどたどしい手話に思う」

最近の手話講習会は、若い女性中心の時代から幅広い年齢に広がりをみせているように感じる。
特に、子育てに一区切りがついた、五十代からの女性が増加傾向にある。
実際に手話ボランティアとして活動している人たちの年齢層は、五十前後が中心になっている。
自分が二十代の頃に五十代の人たちを指導するのが苦手であったし、習う方も青臭い理論を話す若者に習うのには抵抗があったであろう。
しかし、自分が四十代になり、五十代の人たちを指導していて、以前と感じ方が変わったこととに気付く。
二十代の頃は、なかなか覚えてくれないことに「まどろっこしさ」と「いらだち」を感じていた。
しかし、最近は「仕事を持つ人もいるし、家庭の事もあるのに、頑張っているなあ〜」と素直に感心できるようになった。
その人がたどたどしい手話をすればするほど、その思いが強くなる。
今後は、「手話奉仕員」だけでなく「手話通訳者」の養成に力を入れなければならないが、手話を少しでも覚えて、ろうの人たちのお手伝いをしようとしている、この人たちの存在を忘れてはならないと肝に命じるこの頃である。
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「オーダーメイド通訳者」

先日テレビを見ていたら、障害を持っている人たちの靴を専門に作っている靴職人さんが出ていた。
一人一人の障害に合わせて靴を作っており、成人式に出るための靴を注文した二十歳の女性が、「自分の障害をカバーしてくれる靴」と職人さんに感謝していた。
例えば車椅子もオーダーメイドになっており、個々人に合わせて作られるようになってきている。           
聴覚障害者の場合はどうであろうか?
補聴器は少しづつ個々人に合わせてフィッティングされるようになってきている。
では、手話通訳者はどうであろうか?
個々人の聴覚障害者の障害に十分に対応できるようになってきているだろうか。
そういう視点から手話通訳者を考えていくと、多種多様な聴覚障害者個人のニーズに対応していく知識や技術を身に付けていかなければならない手話通訳者は大変だと思う。
そして、聴覚障害者からの幅広いニーズに対応していける手話通訳者を育てていくには、より多くの聴覚障害者が遠慮せずに自分好みに手話通訳者を育てていくことが近道かもしれない。
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「育てる喜び」

今年も種を蒔きました。何の種?当然、「朝顔」の種です。
昨年は種をお店で買いましたが今年は、たくさんの花が咲いたので、ものすごい数の種がとれました。
先日、五百個ぐらいの種をプランターに植え終わり、芽はまだ出ていませんが、朝夕の楽しみが増えました。育てる喜びというか、生命が成長していく姿を日々見られるのは幸せです。
そういう意味で、手話講習会講師や手話サークルの指導者は、成長していく人たちを見られるので幸せ者だと思います。
ただ、花を育てる時に種を蒔く時期、水や肥料の程度等いろんな事を考えて育てていかなければならない様に、手話学習者や通訳者の育成について、十分に配慮して育てていかなければ枯れてしまいます。
枯れる花が悪いのではなく、枯らしてしまう指導者に責任があるでしょう。
肥沃な土壌で良い指導者に恵まれれば、大輪の花を咲かすこともできますが、いつもこんな条件に恵まれているとは限りません。大輪を咲かせる条件に恵まれていない人たちは、どうすればいいのでしょうか?
そこは、人間ですから自らが肥料や水を求めて活動することができますよね。
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「お母さんは耳が聞こえません」

「お母さんは耳が聞こえません」と、あどけない声で、母親の伝言を伝える電話が協会にかかり、懐かしさがこみあげてきた。
以前は多くの子供たちから家や職場に電話がかかってきたものであるが、ファックスや携帯電話が普及して、親の代わりに電話がかかってくることが減ってきた。
電話の声は小学校低学年が多く、高学年の子供からの電話は少なかった。子供自身が嫌がるのかもしれない。
その子供たちも二十歳を過ぎ、久しぶりに会うことがあるが、ほとんどの子供たちが私のことを覚えていてくれ、秘かに感動を覚えたりする。「お母さんは耳が聞こえません」と言っている子供と横にいる親とを想像すると、このままずっと両親の通訳をしてほしいと願わずにはいられない。小学校高学年から中学校になってくると、「お母さんは・・・」と言いにくくなってくるであろう。
しかし、そんな思春期を過ぎると「お母さんは・・・」と聞こえない親をかばうような口調で言えるようになる子供たちを何人も見ている。
障害を持って生きることの「きつさ」や子供たちに負担をかけたくない親の気持ち等を考えると、「手先の技術にこだわる通訳でなく、ろう者と共に社会に立ち向かえる感性のすてきな通訳者が多く育ってほしい」と言ったろう者の言葉を思い出す。
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「通訳者の親はろう者?」

 「親の顔が見たいわ」とはよく聞くことばである。
では、手話通訳者に対して「あなたの親は誰?」と聞かれたら、生みの親ではなく日常的に深く関わってきたろう者は誰?という意味であろう。
最近の手話サークル員を見ると親と呼べる人たちがおらず、手話講習会育ちが中心になり、親からの『しつけ』を受けていないのではないかと感じる場面に出会うことが時々ある。
そのことは、地域の通訳者の言動を見ていると何となく同じ傾向がうかがえ、地域の親であるろう者の顔が浮かんできて納得することも多い。
親が甘い地域や厳しい地域そして、親がいない地域も存在する。
「親はなくとも子は育つ」とはよく言われることばであるが、手話通訳者の場合は親がなくては育ちにくいのではなかろうか。
「通訳者の親はろう者」ということをろう者と通訳者が共通に認識していき、地域の手話サークルづくりや活動に取り組んでいくことが大切ではなかろうか。
そして、親に甘えてワガママに育った通訳者や、親の育て方が悪いと言っている通訳者は素直に反省して自分自身をみつめなおす時かもしれない。
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「かき氷ひとつください」
 先日、地域のお祭りに出掛けた時に、夜店のかき氷屋の店員とお客さんのやりとりが目にとまった。氷にかける蜜を指差して注文しており、お客さんが聞こえない人?としばらく様子を見ていた。
すると、お客さんが聞こえないのでなく、店員が聞こえないのでお客さんが蜜を指さしていたのである。
ミルクを多くかけて、少なくとかろう者の店員に分かるような身振りで話し掛けていた。私は、身振りでのやりとりを一時間くらい見ていた。
お店は結構繁盛しており、お客さんは最初「氷いちご」等と注文しているが、店員が無言で、前に並んだ三種類ぐらいの蜜を指差すあたりから「?」を感じ、もしかしたら目の前の店員が「聞こえないのでは?」と感じ始めるようである。
いろんなお客さんが来ていたが、店員が「聞こえない」ということに対しては、意外とすんなり受け入れていたのに驚かされた。かき氷を「買う人」と「売る人」どちらが立場的に強いのだろうか?
その場面にもよるが「ほしい」人が相手のコミュニケーション方法に合わせなければならない。日常生活の場面で聞こえる人が、聞こえない人に合わせなければならない場面がもっと、もっと増えればいいのに! 
夏の夜のかき氷販売を見てそう思った。
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「手話は覚えてもらうもの?」
昭和四十六年に開始された手話講習会も、県下四十三市町村で開催されるようになってきた。さらに、企業や福祉関係等さまざまなところから、手話指導の依頼がくるようになった。
その際に、手話指導はボランティアでお願いしたいという依頼もある。
ボランティア、つまり予算がないので無償でお願いしたいということである。
無償が悪いわけではなく、無償での手話指導が望ましい場合もあるだろうが、無償の根底に潜んでいる、手話や聴覚障害者福祉に対する意識にひっかかりを感じる。「聞こえない人たちのために手話を『覚えてあげる』のに受講料を負担しなければならないの?」
このような考え方が根底にあるから、手話指導は無料と結びつけてしまうのではなかろうか。一定の期間、継続的に英語を習う場合には「無償で」とは、あまり言わないだろう。しかし、手話になると無償で習いたいとなる。
この発想は「福祉の仕事だから給料が安くても仕方ない」ということにもつながっているように感じる。
「ボランティアだから、多少手話が通じなくても仕方ない」という、考えが行政にもボランティア自身にも広がっていくことが一番心配である。
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「病気に感謝」
最近成人病検診を受けたが以前と比べて、各種機器が改善されてきたのに驚いた。例えば、レントゲンの検査で聴覚障害者が息を止めたまま、苦しむことのないように「息を吸って」と「息を止めて」の文字ランプが点灯するように改善されていた。今年の登録手話研修会では、医療場面での手話通訳技術を中心に研修を行なっているが、各種検査等を経験している者と未経験者の手話表現は明らかに異なる。
例えば、「心電図」という表現を未経験者は、ことばにひきずられて手話表現しようとして「心臓」+「調べる」のような表現をするが、経験者は「手足首に機器を巻き付けて、線をペタペタ体に張りつける」しぐさで表現する。
経験者は具体的に表現できる強みがあるが、それを見ているろう者が経験しているかどうかも重要になってくる。ろう者が「CT検査の時に息を止めるタイミングが分からない」と言っていたが、経験のなかった私は、CT検査の時に、なぜ息を止めるのか理解できなかったが、最近やっと分かりました。厄年の今年になって、今まで未経験だったCTもエコーも経験して、医療分野の通訳に自信が持てるようになり、病気に感謝?
患者心理の勉強をするためにも病気体験を勧めたいところですが、それは難しいので、せめて諸検査体験だけでもあるといいですね。
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「癒しとしての手話」

手話ブームといわれて久しいが、もはや一過性のブームではなく、市民学習の中に手話は定着してきたようです。それは、テレビ等を通じての影響もさることながら、現代社会の中でのコミュニケーションに疲れた人たちにとって、手話が人々の心を「癒す」効果を持っているからではないでしょうか。
ファックス、メール、インターネット等が普及し、生活は便利になってきたように思われますが、相手と向き会って会話することが減少してきており、人々の心は満たさない、何かを感じはじめたのかもしれません。
教育学部の講義で手話を指導していますが、ある学生が言った事が「癒し」としての手話の効果をうまくとらえているので紹介します。
『最近はメール等での会話が増え、自分の感情を表情に出したり、相手の感情を読み取ることが少なくなってきました。そんな中で相手と対面して、手話で会話すると、顔の表情や手の動き等を思いっきり出すことで、とてもいい気持ちになりました。
手話は、自分の心を素直に映し出してくれる素晴らしいコミュニケーション手段だと感じました』この学生が言ったことをじっくり考えてみると、多くの人が手話に魅せられる理由の一つが明らかになったように思います。癒されている自分を感じたら、今度は他の人も癒してあげることのできる自分でありたいものです。
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「この声の所有者は」
  先日、英語通訳のボランティア活動をしている人の話を聞く機会があり、手話通訳と共通する問題も多くあった。
例えば、対象者の話した事が一般常識とずれていると感じた時に、そのことばを通訳することをためらうボランティアがいるという話があった。
なぜ、通訳者がためらうのだろうか?
それは、通訳者自身が自分の声を発することにより、通訳者も常識からずれていると見られることを恐れているからであろう。
これと似た経験を持つ手話ボランティアも多くいるのではなかろうか。
ろう者の手話を読取り、自分の声を出して相手に伝えなくてはいけないので、「私は○○と思います」という通訳方法ではなく、「○○と言っています」というような通訳をしていることが多いように思う。
情報不足が原因で、ろう者がその場に合わない回答をした場合には、不足している情報を通訳者が提供することも考えられる。
しかし、今一度「通訳」とは何かを考え、通訳者としての自分の立場にこだわりを持つような通訳スタイルは戒めなければならない。
通訳している時の声の所有者は通訳者でなく、ろう者であるという事を肝に命じて通訳したいものである。
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「あなたが一番!」
「あなたが一番!」手話通訳に携わる者は誰でもこのことばを待ち望んでいるし、このことばにより活動のやりがいを感じる。
ただし、このことばを安易に求めようとしないでほしい。地道に、前向きに活動していれば自然とその声はあなたに届くはずである。
急ぎすぎると手話通訳者としての活動ではなくなり、ろう者の保護者のような活動に陥ってしまう危険性がある。
つまり「結果」を最優先し、「経過」を重視しない通訳パターンになってしまい、通訳者の考えをろう者に押しつけ、「良かったねぇ〜いい結果になって」というような通訳になってしまうのである。
このような通訳活動は、通訳を受けるろう者を混乱させてしまうことになる。「通訳のAさんはここまでしてくれたのにBさんはしてくれなかった」などというようになってしまう。
「手話通訳を是非○○さんに依頼したい」と言われれば、うれしくなり、必要以上に援助したくなる気持ちも理解できないことはないが「通訳者」としての枠を越えないようにしなければならない。
自分を可愛がりすぎないで通訳者全体のことも視野に入れた活動を望みたい。 
ただ、「手話通訳」とは何か、についての共通認識が十分でないことが今後の課題であろう。
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「上手」と「分かる」の違い
  ろう者から「手話、上手、上手」と言われるのは、私たち手話学習者にとっては非常にうれしいことであり、今後の励みになることばです。
私も「手話上手ですね」と言われ、有頂天になっていた、若かりし頃がありました。
しかし、若い通訳者との会話を終えたろう者が、「彼女は手話が上手だね。で、彼女は何と言っていたの?」と私に聞いてきた事がありました。
私は「手話が上手と言っていたのに、何を言っているか分からなかったの?」と聞くと「手話をスムーズに美しく使っており、自分はあんなに使えないので上手と思う」とのこと。その時に初めて気づきました。「上手」と言われただけで喜んでいてはいけないのだと・・・。
あなたの手話は「分かる」と言われなければならないことを。
手話が社会の中で蔑視され、人に隠れて手話を使っていた時代に生きてきたろう者は、自分たちのことばである手話に「自信」と「誇り」持てないでいたわけです。その自信と誇りは、社会的に奪われたものだと言っていいでしょう。
そういう意味で、聞こえる人たちの使っている手話が正しいと思い込む癖を身に付けた結果が「上手」と「分かる」を使い分けているのかもしれません。
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自己評価、他者の評価
最近、大学の講義を学生に評価させるためにアンケートをとる大学が増えている。指導方法の満足度、指導者の熱意等様々な質問項目が並べられ、そのアンケートを給料等の査定の参考にする大学もあるらしい。
自分自身の指導について、学生がどのように受けとめているのかが把握できるという点では参考になる。
しかし、自己満足に近い自己評価をして、のんびりとしている指導者にとっては、他者からの評価は、かなり気になり、恐いものである。
手話講習会受講者に、毎月アンケートをとってみるのもいいかもしれないが、自信をなくし、翌月の指導を辞退する講師が増えるかもしれない。他者の評価を素直に受け入れることのできる自分でありたいと願うが、これがかなり難しく、自己を過大評価している方がぬるま湯につかっているみたいで楽であろう。
手話通訳という活動は、常にろう者からの評価を受ける立場にあるから、厳しい世界のはずであるが、意外と正面きっての評価されることは少ないのが現実である。
講演会の通訳終了後に「私の手話通訳どうだった」と聞く勇気も必要だし「よく分からなかった」と言われた時に、それを素直に受けとめる謙虚さも持ち合わせていなければならない。口で言うのは簡単ですけど・・・。
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「やっちみちから言え!」
聴覚障害者協会支部や手話サークル主催で、様々な大会を実施することが増えてきており、実行委員会組織をつくって準備することが多い。
その時に、必ず様々なトラブルが起こり、いろんな対立の構図ができあがる。中でもろう者と健聴者の対立を見かけることが多く、大会終了後も「しこり」が残り両者の関係が気まずくなったりする。
そして、大会開催経験が少なく、活動が未成熟な地域ほど、このような対立の構図が多いようである。それぞれが経験に乏しく、相互協力の方向を見いだせないままに、人間関係が泥沼化していくのである。
聴覚障害者を「理解」と簡単に言うが、相手を「理解」して、相手から「理解」してもらうことは、大変な労力を要するし、一朝一夕ではできないのである。そこのところを十分に認識して、準備に頑張ってほしい。
大会を立派に成し遂げることも大切だが、大会開催までの準備期間中に起きる様々なトラブルや意見の食い違いを、そのまま持ち越さないで、相手を尊重した上で意見の食い違いの原因は何かを見つめてほしい。
そして、大切なことは、目的に向かってスタートをきったからには、前向きに取り組む姿勢である。ともすれば、決定したにも関わらず、◯◯が心配・・・、◯◯の時はどうするの?と会議で時間を浪費する人に一言言いたい。    「やっちみちから言え!」
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「事前準備し過ぎ?」
大会の通訳担当者と事前に打合せしていた時のことである。
来賓者のあいさつ文が事前に入手できており、当日参加するろう者から手話表現を教えてもらったらどう?と助言した。
ただ、言った後に自分でも何となく変?と感じた。
皆さんは、この問題をどう思いますか?
手話通訳者は、事前の準備を十分に行い、必要に応じてろう者との事前打合せも行なうべきと学習してきたはずである。
ただ、この事例については何かひっかかりを感じた。
それは、手話通訳ということで事前に入手した情報を通訳者以外に見せるということで感じる抵抗か?
ただ、これはあいさつ文であり、当日に正確な情報を伝えるための事前準備のためには許される範囲かもしれない。
そのひっかかりは、参加者本人に聞くことから生じるものである。
当日参加予定のろう者にあいさつ文の手話表現の指導を受けたとすると、そのろう者は内容を事前に把握して、大会当日に感じるかもかもしれない感動や驚き等の感情を当日に感じることができなくなってしまいかねない。
内容にもよるが事前準備のし過ぎということがあるのかもしれない。
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「○○の娘です」
「○○の娘です」と二十歳頃のお嬢さんがほほ笑みながら答えた。
家の近くのコンビニに寄った時にレジの子が私に向かって「こんにちは」と声をかけてきた時のことである。
不思議なものでお客としての自分にではなく、知人としての自分と向き合っていることが自然に分かるものであり、どこで会った顔か思い出せないでいる時に「○○の娘です」と聴覚障害の親の名前を答えた。
手話通訳を頼まれ、何度か家に行った時に会った事はあったが直接話をした事はあまりなかったので驚いた。
コンビニで買った肉まんを食べながら「私が気付かなったのになぜ彼女はわざわざわざ声をかけてきたのか」を考えた。
そして、自分自身の嬉しいという感情はなぜなのかをも考えた。
それは、聴覚障害者を親に持つ子供さんが自分たち手話通訳活動者をどのように見ているのかという事がいつも気に掛かっていたから、そのような場面に出会った時に安心感と共に喜びを感じるのであろう。
幼子から思春期を迎え成人へと成長していく彼等とほんの少し関わっただけなのに最近このような場面を多く演出してくれる彼等に感謝するとともに年をとっていく自分を自覚します。
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「ろう者より先に怒るな、泣くな、笑うな」
手話通訳者はいろんな所に出掛け、多くの出会い、多種多様な経験をする。
ただ、この経験はろう者が主体者として経験することであり、通訳者は通訳行為を通じて「疑似体験」的な場面を経験しているにすぎない。
しかし、通訳者の役割を十分に認識していないと通訳者が「実体験」をして、主体者であるろう者が「疑似体験」をしているような場面が生まれることになる。
例えば聞こえる人がろう者に対して失礼な発言をしたような場合に、ろう者が怒る前に通訳者が怒るというような場合である。通訳者は自分が怒る前にその失礼な発言をろう者に「通訳」することを最優先しなければならない。
同じような例として通訳者が手を動かす前に笑ったり、泣いたりしてろう者への情報提供が遅れてしまうことがある。通訳しているのは人間で、感情を持っているので場面によっては悲しみや怒りで感情を抑えきれず、通訳できないということも現実にはありえるだろう。
しかし、通訳者がその場所で疑似体験であるにせよ体験するのはろう者からの依頼があるからであり、依頼者よりも先に感情を表すことは通訳者として反省すべきであろう。
ただ、聞こえる人たちの大部分が示すと予想される感情をろう者が示さない場合に通訳者の伝える能力の不足のみでは片付けられない問題が存在する。何事にも我慢する事を押しつけられてきたろう者の場合は、聞こえる者の言うがままになっている例がある。
こんな時は通訳者の役割を捨てて一人の人間として憤りをぶつけたい衝動にかられることもあると思うが、通訳者は通訳場面では「個人」として存在しないのであり、通訳者の感情表出はありえないのが原則であることを忘れてはならない。
ただし、憤りを感じる感性は通訳者に欠かせない資質である。
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「伊東雋祐は神であった!」
「手話通訳士試験傾向と対策」という本が、一般の本屋の資格取得コーナーに並んでいるのを見て驚いた。
以前、手話技術関係の書籍が本屋にたくさん並んだ時には、手話ブームもあり、採算がとれるから当然と受けとめていたが、この対策本は四千二百円であり、商業ベースには乗りにくいだろう。「○○試験の傾向と対策」という本が発行され、資格試験の仲間入りをしたようでうれしいと思う反面、なんとなく不安を感じる。それは、手話サークルや全通研という集団の中で学習を深め、通訳士試験を受験していくコースとは別コースの受験者が増えてくるという不安であり、聴覚障害者協会との関わりを持たない通訳士が誕生することもありえるわけである。しかし、これは手話や手話通訳が一般化している証拠であり、肯定的にとらえ、今までのコースとは別のコースで活動していこうとしている手話学習者を聴覚障害者や聴覚障害者協会と関わりを持たせた活動につなげていくことが大切となる。
今は、聴覚障害者や手話通訳関係の書籍がかなり多く出版されるようになってきており、インターネットでも多くの情報が取り出せるようになった。昭和四十年代後半の手話関係書籍も少ない頃に手にした「ろうあ者問題とろうあ運動」は、私にとってバイブルであり、著者の伊東雋祐は神であった。    
  そして、今も神であり続けている。
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「依頼」と「信頼」
「ろう者と日常的な交流を深め、信頼関係がないと通訳活動はできない」と手話講習会や手話サークルで学習してきたと思う。それは、主に二つの理由からであった。一つは多くのろう者と会って交流しないと手話技術の向上は図れないという理由である。二つ目は、ろう者が交流もない通訳者に病気や子供の教育、家庭内の問題等の通訳依頼はしたくないはずだと考えていたからである。
しかし、最近二つ目の理由に疑問を感じるようになってきた。「プライベートな内容だからこそ交流の少ない通訳者に依頼したい」という考えもあるのではなかろうか。例えば、子供が警察沙汰になるような問題を起こした時に「交流のある通訳者」よりも、「交流のない通訳者」に依頼したいと考えるろう者もいるはずである。
しかし、最終的にはほとんどが交流のある通訳者に依頼しているのが現状である。今までこれを信頼関係に基づく通訳依頼ととらえ、依頼された通訳者は信頼された喜びを感じ、活動意欲も喚起されたものである。
しかし、依頼するろう者としては、通訳者の絶対数の少なさや手話通訳全体に対する不安感があるために、少しでも知っている通訳者に依頼せざるを得ないという一面もあるのではなかろうか。「依頼」イコール「信頼」と単純な受けとめ方でなく、掘り下げて考えることが大切だと思う。
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「過剰サービスは負担」

自力で車椅子をこぐことのできない、重度の肢体障害の人が言っていたことばが印象に残っている。「人に車椅子を押してもらうと、道端にある花や町の景色をゆっくりと、立ち止まって見たい時に、介助者に気を遣うので、気兼ねすることのない電動車椅子で移動することが多い」。
親切やお世話の仕方というのは非常に難しいもので、少しずれると昔はやった『小さな親切大きなお世話』ということになりかねない。
以前入院した時に、腕に点滴の管をつけたまま、自分の食事を運ばなければならない事があり、隣のベットの方が代わりに運んでくれた。
この事は親切でありがたいが、数回してもらううちに気付いたのは、自分のリズムで食事をしていなくて、運んでくれる方の様子を気遣いながら食事をして、とても疲れた経験がある。
手話通訳活動にしても『痒いところに手が届く』ような通訳パターンを時々見かけるが、負担に感じているろう者も多くいるのではなかろうか。
また『親切の押し売り』にならないようにしないと、「手話通訳者」なのか「保護者」なのか分からなくなる。
そして、今回皆さんに考えていただきたいのは「友達として通訳する」という事です。
機会があれば手話サークル等の場で話してみてほしいと思います。
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「通訳対象はろう者だけではない」
前号で問題提起した「友達として通訳する」ということについてどう考えるか、手話サークル等で話してみましたか?
「友達として通訳する方が相手の気持ちも手話も良く分かるし、相手も通訳者である私に遠慮なく言いたいことが言える」という考え方があります。
一方「手話通訳者は保護者でも助言者でもなく、中立的な立場であり、通訳対象はろう者だけでなく健聴者も含まれている」との考え方があります。
ここではっきりしなければならないのは、「手話通訳とは何か」を理解している友達が通訳することは問題ないが、手話ができるけど「手話通訳とは何か」を理解していない友達が通訳することは、問題があるということです。別の言い方をすれば、手話ができるからと言って手話通訳ができるわけではない、という事です。
ただし、利害が絡む通訳内容になると友人関係の中での手話通訳は、かなり難しくなるのが現実ではないでしょうか。
それは友達としてのろう者の利益や諸情報を優先して考えず、一方の通訳対象者である健聴者と「平等」の通訳をすることは、かなり困難を伴うと思いませんか?このような時に「公平」な通訳を貫くことに不安を覚えたら、通訳を辞退すべきだと思います。
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「一行の思いやり」
先日、法人主催で「第一回登録要約筆記者研修会」を開催した。
聴覚障害者に対する情報保障として、手話通訳も要約筆記も同じだが、今まで手話通訳に関する研修会が中心に行なわれてきました。
 それは、聴覚障害者協会会員のニーズとして、手話通訳が中心であったという事や要約筆記は手話と比べて歴史が浅いことも 要因として考えられます。ただ、最近は聴覚障害者協会主催の行事にも大分県要約筆記サークル「陽ざしの会」の協力を得て、OHPが付けられることが増えてきた。
また、私自身、要約筆記事業に関わって多くのことを学ばせていただ
いた。例えば、要約筆記者は大会等の依頼があったら、事前に学習会を開き講師の書籍を読んだり、多用されることば等の学習を入念に行なっていた。手話通訳者も本来行なわなければならないものであるが、今まで十分になされてこなかった面がある。しかし、要約筆記者に刺激されて、手話通訳者も大会担当は責任者を決めて、集団としての学習も徐々に定着してくるようになった。
また、要約筆記者の方々は、「ことば」に対して、繊細な感覚を持っていると感じることが多くあった。難聴者の方とのファックスのやりとりの際に、必ず時候のあいさつ等の一行を付け加えることの大切さと優しさも教えてもらいました。
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「何かが違う、どこかが違う」
NHKで放送されている「プロジェクトX」という番組を見ることが多い。
国産自動車の開発に携わった人たち東京タワー建設を支えたトビ職人 
青函トンネルの難工事の時に命を張った地元の漁師たち私たちは結果のみを知らされることが多く、それまでの経過や繰り広げられる人間ドラマを見ることはほとんどない。
開発や研究の最前線にいる人間は、本当に純粋なる探求心と、人々のためになるものを開発していくという真摯な姿である。
彼らに共通しているのは、「ひたむきさ」と、俺がやらなくて誰がやるという「気概」である。                      
そこに、私利私欲は微塵も見られない。
故に彼らの姿はすがすがしく、美しく感じる。
聴覚障害者と関わる私たちも、ある面ではパイオニア的な役割を担っている。
聞こえないが故に生じる不利益が、厳然とまかり通っているこの社会で、「気概」を持ち、聴覚障害者が住みやすい社会をめざして「ひたむき」に取り組んでいかねばならない。
そこに、個人欲がなければ、多くの人に「すがすがしさ」を感じさせ、運動の理解者を増やすことにもつながるであろう。
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「それぞれの立場」
テレビドラマに手話が取り上げられ、手話講習会に多くの人達が参加するようになり職場でも学校でも手話が話題にのぼるようになった。
このことは、手話の広がりという面では大いに歓迎したが、「私はあまり歓迎しなかった」という声を最近聞いた。
それは、手話関係のドラマが話題になり、テレビで見た手話を同級生が楽しそうに使っている姿に抵抗を感じたから、ということであった。
話している間に分かったのだが、彼の両親は聴覚障害者で彼も家では手話を使っており、手話が広まることは歓迎したいが、素直な気持ちで受け入れる事ができなかったという。
それは、「手話」を「聴覚障害者」と関係ないものとして使っていたり、聞こえないことにより、生じる様々な問題に関心を示さない態度に対する怒りであろう。
手話通訳活動の中で、聴覚障害者を親に持つ子供たちと様々な場面で関わるが、複雑な気持ちで手話通訳者を見ている子供もいるだろう。
従って、手話通訳者は言動には細心の注意を払わないと、子供たちの心を傷つけかねない。諸外国に比べて、日本は聴覚障害を親に持つ手話通訳者が少ないとわれているが、日本は子供たちをいたわる社会環境が整っていない事が一つの要因かもしれないと思う。
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「あなたの手話は難しい」
ある手話通訳者の言ったことばが強く印象に残っている。
「自分が通訳すると、多くのろう者が分かってくれていたので、自分はそれなりに手話ができると思っていたが、そうではなくて、ろう者が勘を働かせて手話を読み取ってくれていた事に最近ようやく気付いた」ということばである。
実にすがすがしいことばである。
手話が分からない時に「あのろう者の手話は難しい」等とろう者の責任にしてしまい自分の力量不足を素直に認めたがらない通訳者の弱い心を反省へと導くにたることばである。
手話学習者がろう者に対して「あなたの手話は難しい」と言っている場面を時々見かけたりするが、そのことばで傷つくろう者も多くいることを十分に認識しなければならない。
「あなたの話し方は良く分からない」と言われたらどんな気持ちになりますか?
あまりいい気分ではないですね。手話をことばとして使っているろう者にとっても同じです。
そして、手話が「難しい」と言われ続けたろう者は、いつしか「私の手話は下手、健聴者の手話は上手」と言うようになってしまう。
こんな状況が繰り返されるとろう者が自然に使っている手話表現は見られなくなり、手話通訳者は、ろう者が使う自然な手話を理解できなくなってしまう、という悪循環に陥ってしまうのである。
このような事態を生み出すのは、ろう者に対する配慮を欠いた「あなたの手話は難しい」の一言からであることを私たち手話学習者は反省しなければならない。
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「チャペルの鐘」
新しいカップルを祝福するように荘厳なチャペルの音が鳴り響いている・・・ 
こんな場面での通訳は本当にうれしい。
最近も二組のカップル誕生の場面に出席させてもらい、多くの感動をプレゼントしてもらった。
二人の新郎は、私が専任手話通訳者としてバリバリ?と通訳活動をしていた頃にランドセルを背負った小学生であり、その時から知っているので感動もひとしおであった。
新郎の両親は、共に聴覚障害者で私は「手話通訳」というよりは、祝いの席にいる手話を知っている人という感じであった。
披露宴の最後の「新郎挨拶」を私が通訳しようとしたら、新郎本人が手話を使い始めたのである。
スポットライトの中で自分の両親に伝えるその手は感謝の念に満ち、それを一心に見つめる両親。
こんな場面では、「手話通訳者」の登場する余地はなく、感動の波に身を任せればいいだけである。
そして、彼らと話していて気持ちがいいのは、両親に対する深い愛情が感じられることである。
彼らが、小学校から社会人になるまでの過程をほんの少しであるが、見てきた自分としては、その成長ぶりをこのうえなく嬉しく感じた。
ここまで成長するには、多くの葛藤や悩みを経験しているに違いない。
だからこそ君たちの優しさは深く美しい。
私たち手話学習者は、彼らから学ばなければならないことが多くある。
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「養成」事業で人は育つの?
仲間うちで始まった手話の勉強会も「手話奉仕員」養成事業となり、最近では「手話通訳者」や「手話通訳士」養成事業も開始された。
確かに、幅広く学習できる機会が増えてきた事は、喜ばしいことではあるが「養成講座」に参加しさえすれば、講座の目的に合った人間が自動的に養成されるわけではない。
やはり、養成目的に合ったカリキュラムや指導力が重要となるし、なによりも講座参加者が能動的な取り組みをするかどうかが「養成」事業の効果があがるかどうかのポイントであろう。
親子の関係を学習する「親業」の講座も開かれているし、「母親学級」等も設けられている。手話の世界でも、そのうちに「専任手話通訳者養成講座」や「手話サークル会長養成講座」が開催され、試験に合格した者が専任手話通訳者や手話サークル会長となる時代がくるのだろうか?
更に、「手話サークル会員養成講座」が開講されて、受講者の中から優秀な成績の者だけがサークル会員になるような時代がくるのだろうか?
そうなると、かたちにはまった手話通訳者だらけになり?ろう者はおもしろくないと感じるのだろうか。
あるいは、手話学習者の人数確保よりも、質的な手話通訳者を確保したいという観点から歓迎されるのだろうか。
新年を迎えるにあたり、このへんを考えなければ手話サークルが手話講習会の延長線上の活動に終始し、「手話サークル」の看板が重荷になりはしないかと危惧する。
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「どっちを信じるの?」
ずっと以前に、こんなことがあった。「私の家の物を盗むのはあいつだ」と激しい手話で語る老人が目の前にいた。
このろう老人とは、初対面で性格等もよくつかんでいなかったが、本人の怒りが伝わってくる。
事情を聞くと、「あいつ」とは親戚の人で、自分たちが外出している時に家に入って来て、物を盗んでいくとのことである。盗まれた物を聞いていくと、下着、シャンプー、テイッシュ等日常雑貨が多く、もしかしたら、目の前にいるろう老人は「ボケ」「被害妄想」なのかもしれないとの疑いが頭をよぎった。そして、親戚の人と電話で話をすると、「またですか。今まで何度も盗まれたと言っては親戚が迷惑しているんですよ」とのことであった。やっぱりろう老人がボケているかもしれないと思い込むようになった。しかし、手話通訳者がこのような思い込みを持つと、ろう者は誰に信じてもらえばいいのだろうか?利害関係の対立する場面では、健聴者の方が理路整然と説明し、ろう者の説明と比較すると「本当」らしく聞こえる事が多いが、ことばの巧みさと真実は異なるものであり、手話通訳者は、ろう者を全面的に信じることから始めなければならないと反省させられた。このケースの真実は分からないが、親戚の人から合鍵を返してもらって以後、ろう者から盗難の訴えはなくなった。
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「育てなおし」
幼児期に親の愛情が不足していた場合に、成人後にいろんな問題を抱えることがありそれを少しでも軽くするために「育てなおし」というケアーがあることを知った。赤ちゃんの時に経験すべきことを「愛情」をもって繰り返し行なっていくのである。
具体的には、二十歳ぐらいの若者を抱き抱えたり、ミルクを飲ませたりしており、奇異な光景であったが、これがいわゆる「育てなおし」らしい。
最近は、手話学習の「七つのポイント」や「日本手話」等と手話の技術学習が理論的に整理されてきている。
以前に手話学習した者は、「ろう者との交流の中で手話を覚えろ」この事のみが強調され、具体的な技術学習のあり方については示されておらず、改めて最初から手話を学習したいとの声も少なからず出てきている。
しかし、ろう者との交流の中で学べという指導は今でも尊重されるべきであり、手話技術のみでなく、聞こえない人たちの生活の中から様々な問題をつかみ、人間性豊かな通訳活動者になってほしいとの願いが基本にあったわけである。
従って、すべての通訳活動者が手話通訳活動者にとって「豊かな人間性」とは何かを考え、自分自身に不足している面があると感じたなら、手話通訳者の「育てなおし」を自ら実践してはどうでしょうか。
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「キャベツはもらっていいの?」
「すみません。通訳終了後にろう者からお礼をもらってしまいました」と手話通訳者から電話をもらった。何をもらったの?
「キャベツ三玉です」それは、本人が作ったもの?「本人が作ったものです」。では、もらってもいいと思います。
手話通訳が普及していなかった頃は、手話通訳を依頼するとお礼が必要と思っていたろう者もいた。また、聞こえる人たちからの親切に慣れていないろう者も多く、手話通訳者が来て援助してくれたことに対して、感謝の気持ちとして、お礼をしたいと申し出る人もいた。
このような場合に手話通訳者は、断るのが当然であるが、農家等の手作りの物を出されると、辞退するのが逆に失礼の場合もあるような気もする。手作り野菜はいいけど、購入した野菜は? 手作りメロンは?
考えはじめたら、きりがなくなるが、気をつけなければならないいのは、公的な通訳派遣制度の中で生じた『物』の介入という点である。この点を考えると、今後は一切受け取らないという統一した指針が必要かもしれない。  このためには、「援助される」「援助する」という関係を感じさせない通訳スタイルの研鑽が必要である。
更に、ろう者自身が遠慮しながら通訳依頼するような状況でなく、主体的に制度を活用できるような「専門的な手話通訳派遣」制度の確立が求められる。ただ、今後もキャベツ騒動は続くのかもしれない。
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「私は練習台?」
「違う!そうじゃない。もう少しゆっくり…」等。病院のベッドに寝かされて検査を受けていた時に耳もとで聞こえるか、聞こえないくらいにささやかれていたベテランの医師と若い医師の会話である。
「俺は、若い医師の技術向上の練習台になんかなりたくない。指導しているあんたが直接検査してくれよ!」と言いたくなった。   その検査は痛みを伴い、若い医師が下手だから余分に痛いのではないか等、不安が倍増してくる。
しかし、看護婦さんが手を握ってくれ「大丈夫、あと少しで終わるからね」と励まされ、医師に対する不満を口にすることなく、検査は終了した。検査後に考えされられた。
今まで、ろう者から通訳依頼された際に、内容に応じては別の通訳者を派遣することがあった。ろう者本人は「おまえが来いよ!」と思っていたかもしれない。
確かに、手話通訳者を育成していくためには、多くの場面での経験を積んでもらうことが重要である。しかし、現在の通訳派遣体制では「私は練習台?」と、ろう者が感じる場面があるかもしれない。
ろう者にそんな不安を抱かせないためには、通訳派遣前後の指導の徹底と通訳現場での研修のあり方を検討することも重要である。
そして、ろう者はもとより通訳依頼する聞こえる人たちが安心し、且つ信頼して依頼できる通訳派遣制度を考えていくことが最優先課題であろう。
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「手話上達の秘訣は酒?」
手話サークル員やろうの人たちと一緒に飲む機会が多い。何年も前から気づいていたことだが、事例も相当数見てきたので自信を持って公表させていただきます。
飲酒の量が増えれば、増えるほど手話が上手になる」当然、本人の飲酒許容量を越えない程度という前提が必要になるが・・・。これは、酒の効用はもちろんであるが、ろう者との会話に慣れていない健聴者は、自分の言いたいことを、頭の中で手話に換える作業に気を取られ過ぎ、換えられない時は沈黙してしまう傾向がみられる。
しかし、アルコールが入るにつれて、本能的に会話を楽しもうとするようになり、多少手話表現に自信がなくても表現したり、自分で手話を創作して、相手に伝えようとするからではないかと考えている。つまり、酒がなくても、日頃ろうの人と話す時に、もっと会話を楽しむつもりで話すことが、手話上達の秘訣ということになろうか。なんでも、酒と結び付けたがるのは困った癖である・・・・・。
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「 何 故 」
平日にあるろう者が職場に来た。仕事を休んだりすることのないろう者なのでおかしいと思って聞くと、会社の社内旅行だが自分は行かなかったと言う。
以前なら得意の「何故?」を連発するところであるが、黙ってうなずくだけしか出来なかった。
本来なら楽しいはずの忘年会や旅行等に参加しないろう者が少なからずいる。
参加しても回りの話が分からないし、話相手もいないので面白くないと言う。
「そのような機会にこそ積極的に参加して会社の人と交流することが大切」だと最近の私は言わなくなった。
彼も職場が楽しくなるように努力したはずである。そろそろ、健常者と言われる人々が努力する時期ではなかろうか。
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「聞こえない?」
小学生の頃、ろう者と初めて会った。一緒にいた友達が「この人大きな声で言っても聞こえんので」と言った。
しかし、私はすごく大きな声で言えば聞こえるはずだと確信していた。それは補聴器を付けたおじいさんに大声で言えば聞こえたという経験に基づいた確信であり、その確信は手話を学び始めた高校生まで持ち続けていた。
ある時、手話講習会に来ていたろうの人を後ろから呼んだが反応が無かったので大声で叫んでみたが、振り返らなかった。
その時に補聴器を付けているおじいさんと、ろうあ者は違うということを初めて知ったと同時に、大声で呼んでも聞こえない人がいるということにショックを受けた。
ろう者の障害を十分に理解している人が社会の中にどれぐらいいるだろうか。
そんな社会の中で生きていくことの厳しさを、我々は理解できているのだろうか。
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「通訳を見ない権利」
集団に対して通訳している時に頭にくることがある。汗をかきながら一生懸命に通訳しているのに私の方を見ないで、隣のろう者と楽しそうにおしゃべりしているのである。
こういう場面はいろんな会場で見られる。         
これは、
 〇1通訳者の技術が下手で内容を伝えきれていない場合。
 〇2話されている、話そのものが面白くない場合。
 〇3話が面白くなく、通訳技術も下手な場合が考えられる
健聴者の場合はどうであろうか?
面白くない場合は隣の人とおしゃべりしたり、目を閉じて聞くこともできる。そういう場合は講師を見たまま小さな声で話したりできるし、興味がある話になるとおしゃべりを止めて話に聞き入ることもできる。
しかし、ろう者の場合は相手の手話を見なければならないため、おしゃべりしながら話を聞くことは難しくなる。
おしゃべりの時は声を小さく、ろう者の場合は手話を小さくすることが講師に対するエチケットであろう。
そのことさえ守ればろう者の通訳者を見ない権利を保障してあげてもいいように思うのだが・・・・。
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「酒 場 通 訳」
自慢にもならないがろうあ者と一緒に飲みに行ったら、私はいつも最後までつきあうことにしている。単なる飲んべぇに過ぎないのであるが、最後にはろうあ者数人と健聴者は私一人になっている。
そんなとき私は健聴者であることを放棄したい衝動にかられることがある。ろうあ者と一体感を味わいたいという気持ちと簡単な注文でも私に通訳させようとするからである。こんな時、私はほとんど通訳しようとしない。
正確には音声言語を使わないで身振りで用件を伝えるようにする。すると、ろうあ者も私を通じてお店の人と話さなくなり、自分でコミュニケーション方法を考えて直接相手と話すようになる。
こういう場での私の身振りは大変うまいとほめられることが多い。しかし、考えてみると健聴者の場合には色々な場面を経験しており、各場面によって相手の言うことが予測できる。聞こえる者にとっては簡単と思っ ても聞こえない者にとっては各場面でどんな話をするか聞いた経験が少ないために相手の言うことが予測しにくいことが日常生活の中では数多くあるだろう。
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「同じ時代を生きる」
ラジオのスイッチをわからないように消した。今から三時間あまり、ろうあ者と一緒に車で出掛けなければならない。
自分だけが音を聞くことに抵抗を感じていた。テレビを見ている時もそうである。
野球やプロレスだと安心して見ていられる。歌番組やドラマだと可愛いとか、美人だなあ〜という程度にしか楽しめない。
同じ時代を生きている同じ人間は同じ条件が与えられなければならないと思った。
その気持ちは今でも変わらないが、ラジオやテレビは遠慮しないで聞いて、見て、面白いことや必要な情報をどしどし伝えればいいというように変わってきた。
同じ時代を生きている人間に同じ条件が保障される社会を作っていくのは、今を生きる私達の責任であろう。
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「誰のための正義感」
手話講習会や研修会などで「ろうあ者がうそを言っている事が分かった場合にどのように通訳するか」と聞いてみると、うその通訳は出来ませんという答えが多い。
通訳とは相手の言ったことを正確に伝えることであり、通訳者個人の意見を言うべきではないのが原則である。(内容にもよるが)
健聴者にしても自分に都合の良いように適当にうそは言っているが、ろうあ者がうそを言おうとしている時に通訳者はろうあ者にそれを認めようとしない事が多い。
それは、自分の口から言葉を出さなければならない事に対する抵抗であり、うそを言うことによって生じる問題に対して心配するからであろう。
うそでも何でも通訳して、失敗すれば本人の責任になるのだからいいではないかという考え方もある。通訳者はいつも先回りしてろうあ者から失敗という貴重な経験を奪ってしまっているという考え方もある。
通訳者は人間であり、感情もあるので機械的な通訳に徹し切れないものであるが、ろうあ者は通訳という行為に何を求めているのかを考えながら通訳することが必要ではなかろうか。
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「教  わ  る」
ある時、個人的に自動車の学科を教えていた。少し前に説明したことを間違えたので「説明したのに、また間違えて」と私の手が動いてしまった。
すると、今度は相手の手が動き始めた。
「おまえ・時々・手話・間違える・ろうあ者・生まれた時から・耳・聞こえない文章・間違える・仕方ない・おまえ・俺・五分五分」
私は額を親指と人指し指でつまみ、開きながら前方に出した(ゴメンナサイ)。
ろうあ者から多くのものを教わりながら、それに気づかずに、いつも何かを教えてあげているという気持ちを、いつか持ち始めていた自分に気づく。
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「身障手帳は石のように重かった」
学生時代にろうの学生が健聴の女性に失恋した時に言った言葉である。
福祉施策を進める上での枠組みは必要だが、ここまでは「健常者」で、ここからは「障害者」です、ということに何か抵抗を感じた。
それは、一般社会の人々がハンディキャップを持つ人たちを「障害者」という枠でしか見ないようになるのではないかという懸念であった。
人間は一人一人比べれば、それぞれに差があり、健常者や障害者という枠組みは、必要のないものと思う。
しかし、ハンディキャップを補う福祉施策や社会環境が整っていない社会にあっては障害者と健常者の枠組みは、いつまでも続いていくことになる。
誰しも望んでハンディキャップを抱えこんだのではない。出来れば身障手帳を持ちたくはなかったはずである。手帳を持つことは、現実社会の中で障害者の枠組みに入ってしまうことになるからである。
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「カタギになって!」
やくざの世界から足をあらうように説得されている場面を思い浮かべるが、これは、私が働き始めて二年ぐらい経過した時に母親から言われた言葉である。将来の身分保障のあてもなく「日給三千八百円、手話通訳業務を嘱託する」という一枚の辞令の下に働いていたが、通訳という仕事に生きがいを感じていた私は、母親のことばなど馬耳東風であった。
ただ、隣に座っている臨時の若い子と給料袋の金額が同じである事に対しては、抵抗を感じた。金額の高低ではなく、手話通訳という仕事に対する社会的な評価とはこんなものかと・・・・。
それから三年が過ぎ、嘱託は規定により五年で期限切れと通告された。手話通訳の仕事は、他にあるはずもない。そして、いつのまにか私の横には妻や子が。
私の期限切れを知り、ろうあ協会は早速県議会へ向けての手話通訳者の身分保障と福祉センターへの配置の二本立てで、署名活動を行った。僅か一ケ月半の間に二万百五十六人の署名が集まった。あるろうあ者は、一人でアパートを回り、三百人近い署名を集めてくれた。他のろうあ者も多数の署名を集めるために知らない人の家を回っていた。
うまく通じない健聴者に署名してもらっている姿を思い浮かべると、今後もより良い通訳活動を進めていかなければと思う。
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「校庭からの卒業式」
彼の両親はろう者でした。彼は小学校低学年の頃に母親がPTAに来ることに何も感じていなかったそうです。
しかし、高学年になると母親のPTAへの出席を負担に感じるようになり、祖母に出席してもらうようになったといいます。
そして、小学校の卒業式当日も母親に申し訳ないという気持ちを持ちながらも、祖母に出席してもらったそうです。
卒業式も終わり、教室に帰ると友達から「おまえのお母さんが校庭から体育館の卒業式を見ていたぞ」と言われたそうです。
その事をきっかけにして、彼は両親の障害を受け入れていくように努めたといいます。
この話を聞いた時に、障害を持つ本人だけでなく、こどもたちの心理的な負担の大きさを改めて思い知らされました。
また、自身の障害が愛する我が子に負担をかけていることに悩み苦しんでいる親の気持ちを考えるとき、ノーマライゼーション社会が一日も早く実現するように願わずにはいられません。
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「いとおしい」
石川琢木のように時々自分の両手をそっと眺めることがある。
太くて短い指なれど、なぜかいとおしくなってくる。
古女房に言う文句ではないが、「苦労をさせたな」と、ねぎらいのことばの一つでもかけたくなる。
二十年近く動かしていると、手・指・肩・腕は、一般の人と比べて、何千倍も動かしていることだろう。
最近、手話通訳者の職業病が問題となり、労災として認定されたケースも出てきている。
腕や肩が上がらず、思考することもわずらわしくなることもあるという。
知らない人は、知らないでしょうが、手話通訳という行為は、ものすごく疲れるものなんです。
ただ、手を動かしているのではなく、相手にわかるようなことばを考え、全身で別のことばに換えなければならないのです。
また、仮に嫌な奴の発言でも通訳という立場であれば、彼の考え方を忠実に通訳しなければならないという、精神衛生上よろしくない行為です。
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